ドラマ 吉田 茂。 アメリカに負けなかった男ドラマ動画フル視聴見逃し配信再放送<バカヤロー総理 吉田茂>はこちら!

土曜ドラマスペシャル「負けて、勝つ ~戦後を創った男・吉田茂~」

ドラマ 吉田 茂

テレビ東京開局55周年特別企画 スペシャルドラマ アメリカに負けなかった男 〜バカヤロー総理 吉田茂〜 ジャンル 原案 『父 吉田茂』 脚本 竹内健造 監督 出演者 (特別出演) 音楽 国・地域 言語 製作 チーフ・ プロデューサー 中川順平 プロデューサー 倉地雄大 椋樹弘尚 佐藤雅彦 制作 (協力) 製作 放送 放送チャンネル テレビ東京 映像形式 音声形式 放送国・地域 放送期間 放送時間 月曜 21:00 -23:24 放送分 144分 回数 1回 番組年表 関連番組 『 アメリカに負けなかった男〜バカヤロー総理 吉田茂〜』(アメリカにまけなかったおとこ バカヤローそうり よしだしげる)は、開局55周年特別企画スペシャルドラマとして、の月曜 21時 - 23時24分に放送された。 主演は。 原案は吉田の娘であるが著した『父 吉田茂』。 概説 [ ] 吉田茂が日本の復興や独立に向けて尽力していくさまを娘である和子の視線で描いていく物語。 写真を見せられた笑福亭鶴瓶は吉田茂の写真であると思ったそうだが、カメラマンからこの写真に映っているのが鶴瓶自身だと言われて驚いたといい、身内の方からも「吉田茂が舞い降りてきたんじゃないか」と驚かれたという。 さらに吉田の右腕として活躍した白洲を演じる生田は「白洲が吉田に平和条約の受諾演説を渡して、吉田がそれを読み上げる場面を撮った時の鶴瓶さんの演技が凄いと思った。 これまで俳優の仕事をしてきた中で第三者の演技を見て、ここまで心が震えたことなんてないと思えるくらいに感動した」といい、「これはきっと生涯忘れることはありません」と語った。 キャスト [ ]• - (特別出演)• (幼少期) - 亮汰• - ロバート・A• - ドン・ジョンソン• - アナトリ・クラスノフ• 大塚 -• 坂本喜代(こりん) -• 、、、、、 ほか スタッフ [ ]• 原案 - 麻生和子 『父 吉田茂』(刊)• 監督 -• 脚本 - 竹内健造、、• 音楽 -• 時代考証協力 -• 助監督 -• ロケ協力 - 映像のまち推進課、栃木県フィルムコミッション、、もおかフィルムコミッション、蓮岱館、、 ほか• 技術協力 -• VFX -• 美術協力 - リマーテクリエイティブ 新都総合芸術)、• チーフプロデューサー - 中川順平(テレビ東京)• プロデューサー - 倉地雄大(テレビ東京)、椋樹弘尚(角川大映スタジオ)、佐藤雅彦(角川大映スタジオ)• 制作協力 -• 製作著作 - 書誌情報 [ ]• 麻生和子(著)『父 吉田茂』、、 再放送 [ ] 2020年には、同局の『』枠(ただし19:54 - 22:18に枠拡大)で再放送された。 その他 [ ]• 鶴瓶は前日の2月23日に放送された、司会の昭和ドキュメンタリー『』にも、本作の宣伝を兼ねて出演した。 脚注 [ ] []• 株式会社blueprint. 2019年12月9日. 2019年12月9日閲覧。 CINRA. NET. 2019年11月25日. 2019年12月9日閲覧。 Real Sound 株式会社blueprint. 2019年11月25日. 2019年12月9日閲覧。 Real Sound 株式会社blueprint. 2020年1月20日. 2020年2月3日閲覧。 MANTAN. 2020年2月3日. 2020年2月3日閲覧。 『 関東版』2020年12号、、 46頁。 外部リンク [ ]•

次の

負けて、勝つ ロケ地ガイド

ドラマ 吉田 茂

、談笑する吉田 やで外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、から、およびからまで在任した。 優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、戦後日本の礎を築いた。 ふくよかな風貌と、をこよなく愛したことから「和製」とも呼ばれた。 戦後に内閣総理大臣を一旦退任した後で再登板した例は、吉田との2人のみである。 政治活動以外の公的活動としては、廃止されたの復興運動に取り組み、新制大学として新たに設置された皇學館大学において総長に就任した。 また、では、の後任としてのにあたる舎長に就任した。 なお、を経て貴族院議員となり、のやのを務めたは、同時代の同姓同名の別人で、当時からよく間違えられた。 ( 参照) 生涯 [ ] 生い立ち [ ] 1878年(明治11年)9月22日、出身のの闘士での腹心だったの五男として(のち) に生まれる。 父親が反政府陰謀に加わった科でで逮捕されてからまもないことであった。 実母の身元はいまでもはっきりしない。 竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、の庇護のもとで茂を生んだ。 吉田の実父と義父は若い武士として1868年(慶応4、明治元年)のをはさむ激動の数十年間に名を成した者たちであった。 その養母は徳川期の誇り高い所産であった。 小学時代の吉田茂 (明治14年)8月に、旧士での貿易商(元・横浜支店長)・の養子となる。 によると、「もその家族もこの余計者の五男と親しい接触を保っていたようにはみえない」という。 養父・健三が40歳の若さで死去し、11歳の茂は莫大な遺産を相続した。 吉田はのちにふざけて「吉田」などといっている。 学生時代 [ ] 少年期は、西小磯で義母に厳しく育てられ、立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業後、1889年(明治22年)2月、に入学し、(明治27年)4月に卒業すると、10年余りに渡って様々な学校を渡り歩いた。 同年9月から、日本中学(の前身)へ約1年通った後、(明治28年)9月、(の前身)に籍をおくが人は性が合わないと悟り、同年11月に退校。 (明治29年)3月、正則尋常中学校(の前身)を卒業し、同年中に・(の前身)に入学しているがいずれも中退。 (明治30年)10月にに入学、(明治34年)8月に旧制学習院高等学科(のちの旧制、の前身)を卒業した。 同年9月、当時華族の子弟などを外交官に養成するために設けられていた学習院大学科に入学、このころにようやく外交官志望が固まったが、大学科閉鎖に伴い(明治37年)同年9月に無試験でに移り、(明治39年)7月、政治科を卒業、同年9月、および試験に合格し、外務省に入省する。 同期入省者には首席で合格したの他、、、、らがいた。 外交官時代 [ ] 当時外交官としての花形は欧米勤務だったが、吉田は入省後20年の多くを中国大陸で過ごしている。 中国における吉田は積極論者であり、満州における日本の合法権益を巡っては、しばしば軍部よりも強硬であったとされる。 吉田は合法満州権益は実力に訴えてでも守るべきだという強い意見の持ち主で、1927年(昭和2年)後半には、や陸軍から止められるほどであった。 しかし、吉田は、満州権益はあくまで条約に基礎のある合法のもの以外に広げるべきではないという意見であり、以後もその点で一貫していた。 の時代にはへ参加。 政友会の対中強硬論者であると連携し、いわゆる「」を支持。 1928年(昭和3年)、の下で、森は外務政務次官、吉田は外務次官 に就任する。 但し外交的には覇権国英米との関係を重視し、この頃の敗北から立ち直り、急速に軍事力を強化していたとの接近には常に警戒していたため、岳父・との関係とともに枢軸派からは「親英米派」とみなされた。 をつかさどる委員を兼ねた。 (昭和11年)は、から2か月後に駐大使となった。 大命を拝辞した盟友のから広田への使者を任されてで組閣参謀となり、・を予定したが、らの反対で叶わなかった。 駐英大使としては日英親善を目指すが、極東情勢の悪化の前に無力だった。 また、およびにも強硬に反対した。 (昭和14年)待命大使となり外交の一線からは退いた。 大東亜戦争 開戦前には、米大使や外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指すが実現せず、開戦後は牧野伸顕、元首相近衛ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事()し、敗北を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、その後の日本軍の勝利などにより成功しなかった。 その後、日本の敗色が濃くなると、を近衛文麿に引き合わせ後のにつながる終戦策を検討。 しかし書生として吉田邸に潜入したスパイ(=)によって(昭和20年)2月の近衛上奏に協力したことが露見しに拘束される。 ただし、同時に拘束された他の者は雑居房だったのに対し、吉田は独房で差し入れ自由という待遇であった(親交のあった陸相の配慮によるものではないかとされている)。 40日あまり後に不起訴・釈放となったが 、この戦時中の投獄が逆に戦後は幸いし「反軍部」の勲章としてGHQの信用を得ることになったといわれる。 第二次世界大戦後 [ ] 内閣総理大臣就任 [ ] 、(前列中央)らの閣僚らと 終戦後の1945年(昭和20年)9月、の外務大臣に就任。 11月、の外務大臣に就任。 12月、貴族院議員に勅選される。 翌(昭和21年)5月、総裁のに伴う後任総裁への就任を受諾。 に就任した()。 下の天皇組閣大命による最後の首相であり、選挙を経ていない非(なのでではあった)の首相も吉田が最後である。 また、父が公選議員であった世襲政治家が首相になったのも吉田が初めてである。 同年には、吉田の退陣を要求するによってされる。 にを任じてやによって戦後経済復興を推し進めた。 (昭和22年)4月、の公布に伴うでは、憲法第67条第1項において国会議員であることが首相の要件とされ、また貴族院が廃止されたため、実父・竹内綱および実兄の選挙区であったから立候補した。 自身はトップ当選したが、与党の日本自由党はに第一党を奪われた。 社会党のは第一党として与党に参加するが、社会党からは首相を出さず吉田続投を企図していた。 しかし、吉田は首相は第一党から出すべきというを強調し 、またの「」を嫌い翌月した。 こうして初の社会党政権であるが成立したが長続きせず、続くも(昭和23年)、により瓦解した。 この間、政策に不満を持ちを離党した幣原喜重郎やらのと日本自由党が合併しが結成され、吉田が総裁に就任した。 第2次、3次吉田内閣 [ ] 、にて このときGHQ民政局によるが起こるも失敗。 これを受けて吉田は民主自由党単独でを組織した。 その直後に社会党などの野党はを提出、可決されたため、吉田は衆議院を解散した()。 で民主自由党が大勝。 戦後の日本政治史上特筆すべきを発足させた。 (昭和24年)3月、GHQ参謀第2部の少将に「日本の共産主義者の破壊的かつ反逆的な行動を暴露し、彼らの極悪な戦略と戦術に関して国民を啓発することによって、の悪と戦う手段として、私は、長い間、のをモデルにした「非日活動委員会」を設置することが望ましいと熟慮してきた。 」なる書簡を送り、と、が、(昭和27年)に、設置、施行されるきっかけを作る。 アメリカでは、当時、旋風が、吹き荒れていた。 サンフランシスコ平和条約 [ ] 署名式にて 勃発により内外で高まった講和促進機運により、(昭和26年)、を締結。 また同日、(日米安保)を結んだ。 しかし、ここが吉田の頂点であった。 側近のなどが独立達成を花道とした退陣を勧めるなど退陣論もあったが、吉田はなおも政権に意欲を見せ、続投した。 しかし、党内に公職追放を解かれた鳩山一郎を総裁に復帰させる動きがあり、吉田は衆議院を解散()したが、の議席は過半数をわずかに上回るものだった。 吉田はを組織した。 (昭和28年)2月、吉田の国会で質問者()に対し「バカヤロー」と発言したことが問題となり、ら反吉田グループは吉田に対するやそれに続く内閣不信任案を可決させ、吉田は衆議院解散()で対抗した。 選挙の結果、自由党は少数与党に転落、とのでを発足させて延命を繋いだ。 吉田内閣は鳩山グループとの抗争や度重なる汚職事件を経て、支持は下落していく。 (昭和29年)1月からが始まったでは、(法務大臣)を通して、に(幹事長)のの逮捕を延期させた(後に佐藤は違反でされるが加盟で免訴となる)。 これが戦後唯一の発動である。 当然ながら、新聞等に多大なる批判を浴びせられた。 また、同年の及びを設置する全面改正をめぐる混乱では、議長にを発動させてに隊を初めて投入した。 同年にはとをとに改組させており、野党が自衛隊は軍隊であるとして違憲と追及した際は吉田は「軍隊という定義にもよりますが、これにいわゆる戦力がないことは明らかであります」と答弁した。 自身の体験から来る極端な軍隊アレルギーが放たせたともされている。 同年12月、野党による不信任案の可決が確実となると、なおも解散で対抗しようとしたが、ら側近に諌められて 断念し、に内閣総辞職、翌日に自由党総裁を辞任した。 日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ1人である。 内閣総理大臣在任期間は2616日。 造船疑獄では吉田自身が国会からを複数回要求されたが、公務多忙や病気を理由に出頭しなかった。 国会から違反(不出頭罪)で告発されるも、吉田が首相を退いた後である1955年5月19日に検察はとした。 内閣総辞職後 [ ] (昭和30年)の結成には当初参加せず、佐藤栄作らとともに無所属となるが、の仲介で(昭和32年)に入党した。 (昭和37年)、総長就任、翌(昭和38年)10月14日、への不出馬を表明し政界を引退した。 しかし、引退後もの自邸には政治家が出入りし、「大長老」「吉田」などと呼ばれ、政界の実力者として隠然たる影響力を持っていた。 (昭和39年)、にともなうとの関係促進やの処理に態度を硬化させたを池田勇人首相の特使として訪問、と会談した()。 同年、生前叙勲制度の復活によりを受章。 またこの年、元帥の葬儀に参列するため渡米。 (昭和40年)、にあたり、天皇よりを賜る。 その後も回顧録をはじめとした著述活動などを続け、死の前年である(昭和41年)には、『』1967年版の巻頭掲載用として、 "Japan's Decisive Century"(邦題:「日本を決定した百年」)と題した論文の執筆を行った。 1967年(昭和42年)6月には「日本を決定した百年」を国内で出版したが、それから間もない8月末にを発症した。 このときは、あわてて駆けつけた甥の(会長)の顔を見て「ご臨終に間に合いましたね」と冗談を言う余裕を見せたといわれる。 死去前日の10月19日に「が見たい」と病床で呟き、三女のに椅子に座らせてもらい、一日中飽かず快晴の富士山を眺めていたが、これが記録に残る吉田の最期の言葉である。 翌20日正午頃、大磯の自邸にて死去した。 突然の死だったため、その場には医師と看護婦3人しか居合わせず、身内は1人もいなかった。 臨終の言葉もなかったが、「機嫌のよい時の目もとをそのまま閉じたような顔」で穏やかに逝ったという。 享年90(満89歳没)。 葬儀はで行われた。 には戦後唯一のがで行われ 、官庁や学校は半休 、テレビ各局は特別追悼番組を放送して吉田を偲んだ。 は叡光院殿徹誉明徳素匯大居士。 遺骨はの一角において娘婿のらと並んで葬られたが、にのに改葬された。 その後、大磯旧吉田茂邸内の七賢堂に人物神として祀られている。 吉田首相が実施した政策 [ ]• 1946年5月22日 : 第一次吉田内閣の成立• 1946年9月27日 : 労働関係調整法の公布・施行• 1946年11月3日 : 日本国憲法の公布• 1947年3月31日 : 教育基本法の公布・施行• 1947年3月31日 : 学校教育法の公布・施行、学校制度改革、義務教育は中学3年まで延長。 1947年4月7日 : 労働基準法の公布・施行• 1947年4月14日 : 私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律の公布・施行• 1947年4月25日 : 衆議院選挙で、衆議院定数466議席中、与党:自由党が131議席、野党・社会党が143議席を獲得し政権交代• 1947年5月3日 : 日本国憲法の発効• 1947年5月24日 : 第一次吉田内閣総辞職• 1948年10月15日 : 第二次吉田内閣の成立• 1949年1月1日 : 日本国憲法に適合させる改正刑事訴訟法の施行• 1949年1月23日 : 衆議院選挙で、衆議院定数466議席中、与党:民主自由党が264議席を獲得して政権維持• 1949年6月1日 : 労働組合法の公布・施行• 1950年4月15日 : 公職選挙法の公布・施行• 1950年5月4日 : 生活保護法の公布・施行• 1950年6月5日 : 住宅金融公庫法の公布・施行• 1950年12月13日 : 地方公務員法の公布• 1950年12月28日 : 毒物及び劇物取締法の公布・施行• 1951年2月13日 : 地方公務員法の施行• 1951年3月31日 : 結核予防法の公布・施行• 1951年6月30日 : 覚せい剤取締法の公布・施行• 1951年9月8日 : 日本国との平和条約、日本国とアメリカ合衆国の安全保障条約の署名• 1951年11月18日 : 日本国との平和条約、日本国とアメリカ合衆国の安全保障条約の批准• 1952年4月28日 : 日本国との平和条約、日本国とアメリカ合衆国の安全保障条約の発効• 1952年7月21日 : 破壊活動防止法の公布・施行• 1952年10月1日 : 衆議院選挙で、衆議院定数466議席中、与党:自由党が240議席を獲得して政権維持• 1953年3月17日 : 麻薬及び向精神薬取締法の公布・施行• 1953年4月19日 : 衆議院選挙で、衆議院定数466議席中、与党:自由党が議席獲得政党中の最多の199議席を獲得して政権維持• 1954年5月19日 : 厚生年金保険法の公布・施行• 1954年6月8日 : 警察法の公布・施行• 1954年6月9日 : 自衛隊法&防衛庁設置法の公布• 1954年7月1日 : 自衛隊法&防衛庁設置法の施行• 1954年12月10日 : 第五次吉田内閣総辞職 人物 [ ] 、へ向かう機上にて(左)と 性格・特徴 [ ]• 癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストとしての一面もあった。 公私にわたりユニークな逸話や皮肉な名台詞を多数残している。 また、吉田の行動は当時の新聞のの格好の標的になった。 実際に吉田が退陣した時には、ある新聞の風刺漫画に、大勢の漫画家が辞める吉田に頭を下げる(風刺漫画のネタになってくれた吉田に感謝を表明している)漫画が描かれたほどである。 耕余義塾時代、塾生が『養春』という雑誌をだしていたが、その雑誌に吉田は「帰んなんとて家もなく 慈愛受くべき父母もなく みなし児の胸中は 如何に哀れにあるべきぞ」という歌を寄稿したことがあり、複雑な家庭に育ったがゆえの孤独さをしのばせている。 同塾は全寮制で、吉田は約1年半寄宿舎に暮らした。 室長だった渡辺広造によると、吉田は乱暴な寮生にいじめられることも多かったが、じっと歯をくいしばってがまんしていたという。 吉田は人の名前を覚えるのが苦手だったらしく、自党の議員の名前を間違えたりすることもしばしばあった。 に閣僚名簿を報告する際に、自分の側近であるの名前を間違えて、天皇から注意を受けたことがある。 尊皇家・臣茂 [ ]• 尊皇家であり、終戦後、が戦争責任をとっての退位を申し出た時も吉田が止め、国民への謝罪の意を表明しようとした時も吉田が止めたという。 (昭和27年)11月ののに臨んだ際にも、昭和天皇に自ら「 臣茂」と称した。 これは「時代錯誤」とマスコミに批判されたが、吉田は得意のジョークで「 臣は総理大臣の臣だ」とやり返した。 住居 [ ]• で外相に就任した際、東京・のを外務大臣公邸とした。 これはに伴い、旧皇族の経済的困窮を慮ったの要請と言われる。 その後、首相となった後も吉田は外相を兼務し、外相公邸に居座り続けたため、外相公邸が事実上の総理公邸になった。 結局一時の下野を除き、第5次内閣の総辞職で辞任するまで外相公邸に住み続けた。 実際、吉田は半ば冗談で「外相を兼務したのはこの公邸に住んでいたかったからさ」と公言していた。 佐藤栄作が内閣総理大臣であった頃に吉田を訪ねると、羽織・袴で出迎え、佐藤を必ず上座に座らせ、「佐藤君」ではなく「総理」と呼びかけた。 このため、吉田の容態が芳しくない時には、佐藤夫妻は容易に吉田を見舞うこともできなくなってしまったという。 首相退陣後はで暮らした。 政界への影響力を保持し、国内外の要人が訪れることも多かった。 豪壮な旧吉田邸は本人の没後も外交の舞台となり、1979年の日米首脳会談の会場となった。 2009年に火災で全焼したが、寄付金により再建され、2017年4月1日に大磯町郷土資料館別館として公開された。 同年10月23日には、外相と訪日した大統領との懇談・夕食会場として使われた。 趣味・嗜好 [ ]• 吉田は落語が好きで、を贔屓にしていた。 さすがに自分から寄席に行けないので、しばしば柳橋を官邸に呼び、当時珍しかったテレビを高座代わりにして一席演じさせていた。 孫であるは、吉田に連れられて鈴本演芸場に行くエピソードを著書で紹介している。 大の好きで知られ、戦中戦後の輸入自体が不如意な時代にも、戦前に大量に買い溜めしておいた本場物のを喫っていたほどであったが、サンフランシスコ講和条約の締結に至るまでの交渉が難航していた時期には葉巻を断っていたという。 晩年には葉巻を止め、フィルター付き紙巻きのに切り替えた。 吉田は駐英大使時代にイギリス流の生活様式に慣れ、貴族趣味に浸って帰国した。 そのため、官僚以外の人間、共産党員や党人などを見下すところがあった。 その彼のワンマンぶりがよく表れているのが、彼の言い放った暴言・迷言の数々である。 新人のだったは、吉田の印象について「傲岸不遜な『クソ爺』だった」と述べている。 もっとも、相手が礼儀の正しい人なら、その身分がどうであろうと丁寧に振舞ったとも言われる。 吉田は典型的な明治時代の人間であり、彼と親しかったは、自身の随想の中で「吉田老ほど、わが国を愛しその伝統の保持に努めた人はいない。 もっとも、その『伝統』の中には実にくだらんものもあったことは認めるが」と語っている。 車における英国趣味 [ ]• 英国趣味は自家用車にも及んだ。 駐英大使時代の中型モデル、「」1937年式でフーパー製サルーンボディを架装した個体を私品として購入、帰国時には日本に持ち帰り、戦時中に政財界で奨励された皇室・軍等への「自家用車献納」もせず手元に留め置いた。 一方、1960年代に入り日本の自動車輸入制限が緩和された際には、首相時代、首相と個人的に交わした「貴国復興の暁にはドイツ車を購入する」という旧約から、当時のドイツ製最高級車「300SE(W111)」を購入、その旨の電報をアデナウアーに送っている。 いずれも専属運転手の乗務により吉田の足として用いられたが、両車とも吉田没後はに引き継がれてのち、日本国内の自動車愛好家に譲られ、2000年代に至っても自走可能なコンディションで保管されている。 特にロールス・ロイスは、吉田に関連するテレビドラマやイベントでも公開され、公衆の目に触れる機会が多い。 政治姿勢 [ ]• 駐イタリア大使時代にに初めて挨拶に行った際に、イタリア外務省からは吉田の方から歩み寄るように指示された(国際慣例では、ムッソリーニの方から歩み寄って歓迎の意を示すべき場面であった)。 だが、ムッソリーニの前に出た吉田は国際慣例どおりに、ムッソリーニが歩み寄るまで直立不動の姿勢を貫いた。 ムッソリーニは激怒したものの、以後吉田に一目置くようになったと言われている。 首相時代、利益誘導してもらうべく、たびたび地元から有力者が陳情に訪れたが、その都度「私は日本国の代表であって、高知県の利益代表者ではない」と一蹴した。 逸話 [ ] から頃、(右)と 辞めたくなったら… [ ] 1946年(昭和21年)、が行われた結果、を支持する旧系のは善戦したものの伸び悩み、旧系のが比較第一党となった。 内閣は総辞職することになり、幣原は4月30日に参内して自由党総裁のを後継首班に奏請、鳩山はただちに組閣体制に入った。 ところが5月4日になって突然、から政府に鳩山の指令が送付されると、状況は一変した。 自由党は急遽後継の総裁選びに入ったが、候補に登ったのは元政友会の重鎮で鳩山と親しかったと、駐米大使や駐英大使を歴任して当時はとして宮中にあっただった。 しかし鳩山が古島のもとを訪ねると、古島は高齢を理由ににべもなく要請を拒絶した。 そこで鳩山は、松平と親しかった外務大臣の吉田に松平説得を依頼した。 吉田は半年前にも幣原に総理を引き受けるよう説得に赴いており、また1936年(昭和11年)にもの説得を行っている。 外務省OBの説得なら吉田に任せればいいというのは自然の成り行きだった。 果たして吉田が松平に会うと松平は色気を示したが、数日後その松平と直接会った鳩山は、その足で吉田をに訪ね、「あの殿様 じゃ党内が収まらない、君にやってもらいたい」と持ちかけてきた。 これには吉田も仰天して「俺につとまるわけがないし、もっと反対が出るだろう」と相手にしなかった。 ところが元政友会幹事長のが、この日の夜から毎晩のように吉田のもとに押しかけて後継総裁を受けるよう口説き、ついにはその気にさせた。 松野はその手練手管から「松のズル平」とあだ名されていた。 松野の行動は鳩山の関知するところではなく、そのことを知った鳩山は「松野君は外相公邸の塀を乗り越えてまで吉田君に会いにいくそうじゃないか」と不快を隠さなかった。 そもそも鳩山と吉田は友人だったが、この頃から2人の関係は次第にぎくしゃくし始めることになる。 蓋を開けてみると、吉田は松平に引けを取らないほどの殿様ぶりで、総裁を引き受けてもいいが、• 金作りは一切やらない• 閣僚の選考に一切の口出しは無用• 辞めたくなったらいつでも辞める という勝手な3条件を提示して鳩山を憤慨させた。 しかし総選挙からすでに1か月以上が経っており、この期に及んでまだ党内でゴタゴタしていたらGHQがどう動くかわからなかった。 吉田は三条件を書にしたためて鳩山に手渡すと、「君の追放が解けたらすぐにでも君に返すよ」と言って総裁就任を受諾した。 5月16日、幣原の奏請を受けて吉田は宮中に参内、天皇から組閣の大命を拝した。 吉田は「公約」どおり自由党の幹部には何の連絡もせずに組閣本部を立ち上げ、党には一切相談することなくほぼ独力で閣僚を選考した。 自由党で吉田の独走に対する怒号が飛び交うのをよそに、22日に再度参内して閣僚名簿を奉呈、ここにが発足した。 吉田学校・ワンマン体制 [ ] 自由党入党・総裁就任後の吉田は、政党政治家の多い自由党内で自らの地歩を築く必要があった。 そこで、出身者を中心としたと呼ばれる集団を形成した。 (昭和24年)ので当選した議員が吉田学校の主要メンバーとなり、やらのベテラン政党政治家を組み合わせて党内を掌握し「ワンマン体制」を確立した。 吉田学校の主な人物として、・・がいる。 彼らは戦後保守政権の中核を担うこととなり、を形成することになる。 孤高のサイン [ ] 、日米安全保障条約調印式にて(後方最左)らと 日本はに吉田を首席全権とする全権団を派遣、にも吉田を筆頭に、池田勇人(蔵相)、(国民民主党)、(自由党)、(参議院緑風会)、(日銀総裁)の六人全員で署名した。 講和条約調印後、いったん宿舎に帰った吉田は池田に「君はついてくるな」と命じると、その足で再び外出した。 講和条約はともかく、次の条約に君は立ち会うことは許さないというのである。 吉田の一番弟子を自任し、吉田と同じでもある池田は憤慨し、半ば強引に吉田のに体を割り込ませた。 向かった先はを眼下に見下ろすプレシディオ将校クラブの一室。 ここでも吉田は池田を室内には入れず、に一人で署名した。 条約調印の責任を一身に背負い、他の全権委員たちを安保条約反対派の攻撃から守るためだった。 マッカーサーとの関係 [ ] 、米国にて(左)と 吉田とマッカーサーは、マッカーサーがによって解任され日本を去るまで親密であった。 吉田は「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」として、マッカーサーに対しては「よき敗者」としてふるまうことで個人的な信頼関係を構築することを努めた。 その一方、マッカーサーから吉田に届いた最初の書簡を、冒頭の決まり文句「Dear」を「親愛なる」に直訳させ、「親愛なる吉田総理」で始まる文面を公表して、マッカーサーとの親密ぶりを国民にアピールしようとしたが、それを知ったマッカーサーは次の書簡から「Dear」を削ってしまったという話もある。 吉田のユーモアはマッカーサーに対しても発揮されている。 戦後の物資不足の折、葉巻を愛好する吉田に対し、フィリピンにタバコ畑を所有していたマッカーサーから葉巻を贈りたいと言われたが「私はハバナ産しかたしなみませんので」と辞退したという。 また、吉田はマッカーサーに「450万トンの食糧を緊急輸入しないと国民が餓死してしまう」と訴えたが、アメリカからは結局その6分の1以下の70万トンしか輸入できなかった。 しかしそれでも餓死者は出なかった。 マッカーサーが「私は70万トンしか出さなかったが、餓死者は出なかったではないか。 日本の統計はいい加減で困る」と難癖をつけた。 それに対して吉田は「当然でしょう。 もし日本の統計が正確だったらむちゃな戦争などいたしません。 また統計どおりだったら日本の勝ち戦だったはずです」と切り返した。 これにはマッカーサーも大笑いだったという。 復興を成し遂げた日本を見てもらいたいと考えた吉田は、にマッカーサーを招待しようとしたが、マッカーサーは既に老衰で動ける状態にはなく、オリンピックの半年前に死去した。 吉田はそのに参列した。 なお、をリードしに死刑条項を設けたため、の対象になりかけたがマッカーサーへの様々な働きかけを通じて免れたといわれている。 曲学阿世の徒 [ ] 直前、ソ連や中国共産党政府を除く国々との単独講和を進める吉田政権に対し、総長がこれらの政府を含めた全面講和を主張した。 これに激怒した吉田は「これは国際問題を知らぬ曲学阿世の徒、学者の空論に過ぎない」と発言、「学者風情に何がわかる」とばかり、南原の意見を批判した。 同会議の受諾演説の際、吉田は横書きの原稿ではなく、あえてに書いた文章を読んで演説を行ったが、当時の現地メディアから、「巨大なトイレットペーパー状のものを読み上げた」と書かれた。 この巻物式の原稿は必ずしも読みやすいものではなかったようで、当の吉田も後に回顧録で「結局最後まで嫌々我慢しながら読み続けた」と記している。 上記の「曲学阿世の徒」発言と同様、全面講和を主張するに対し、吉田は「社会党のいう全面講和は空念的、危険思想である。 エデンの花園を荒らす者は天罰覿面」と発言。 こちらも大いに物議を醸した。 水をかける [ ] (昭和27年)に京都での演説会に参加した際、カメラマンのしつこい写真撮影に激怒し、カメラマンにコップの水を浴びせ「人間の尊厳を知らないか」と大見得を切り、会場の拍手を浴びたのは有名である。 このエピソードの背景にはある事情がある。 吉田は妻の雪子を1941年(昭和16年)に亡くしていた。 まもなく愛人の芸者でのでもあった小りん(本名:坂本喜代)を大磯の自邸に招き入れて同居を始めている。 ただし岳父・の手前もあり、世間体をはばかってこのことは極秘にしていたが、10日と経たないうちに新聞記者に嗅ぎつかれて垣根越しにスクープ写真を撮られた。 吉田はこの時の恥辱を後々まで根に持って、カメラマンには悪感情を持っていたのである。 ただし小りんとの関係が公表されてしまったおかげで世間体を気にする必要もなくなり、(昭和19年)には晴れて彼女と再婚している。 後に皇太子から皇太子妃に関して記者に追いかけられて困っているとの話があった際、吉田は「そういう記者には水をぶっ掛けておやりなさい」と返答した。 それに対して皇太子は「吉田さんのようにはいかない」と応じて苦笑したという。 人を食っております [ ] 百年祭に日本の代表として訪米し、外国人記者団に質問されたとき、元気な様子を褒められると、「元気そうなのは外見だけです。 頭と根性は生まれつきよくないし、口はうまいもの以外受け付けず、耳の方は都合の悪いことは一切聞こえません」と応じた。 特別の健康法とか、不老長寿の薬でも、という質問には、「はい、強いてあげれば人を食っております」とすました顔で即答した。 吉田はをすぎてもまだ矍鑠としていたが、ある日大磯を訪れたある財界人がそんな吉田に感心して「それにしても先生はご長寿でいらっしゃいますな。 なにか健康の秘訣でもあるのですか」と尋ねると、「それはあるよ。 だいたい君たちとは食い物が違う」と吉田は答えた。 そういった食べ物があるのならぜひ聞きたいと財界人が身を乗り出すと、「それは君、人を食っているのさ」と吉田はからからと笑った。 これが吉田がこの世に残した最後のジョークとなった。 ユーモア [ ] が首相に就任する際、寺内の時代にその秘書官であった吉田は、直接寺内から就任を要請された。 しかし吉田は「秘書官は務まりませんが、総理なら務まります」と返答した。 また、ある日会いたくなかった客人に対して居留守を使った吉田であったが、その客人に居留守がばれた。 抗議をする客人に対し、吉田は「本人がいないと言っているのだから、それ以上確かなことはないだろう」と言い訳した。 (昭和39年)11月の宮中園遊会では、が「大磯はあたたかいだろうね」と吉田に呼びかけた。 吉田は「はい、大磯は暖かいのですが、私の懐は寒うございます」と答えてその場を笑わせている。 皮肉な言動 [ ] を急ぐ吉田に疑問を呈する議員たちに対して「日本としては、なるべく早く主権を回復して、占領軍に引き上げてもらいたい。 バカヤロー解散における広川弘禅農林大臣らの裏切りについては「坊主は三代祟る」(広川農相は僧籍を持っている)と皮肉を言った。 天国泥棒 [ ] 妻の雪子がだったこともあり、吉田家は長男のを除いてみな信者で、吉田もカトリックには好意を持っていた。 1964年(昭和39年)に建設された聖マリア大聖堂の後援会の会長も引き受けている。 ただし岳父ののアドバイスもあって、極右による標的となることを避けるため、吉田自身は生涯を受けなかった。 同姓同名 [ ] 同時代の内務官僚であったの吉田茂と間違えられることが多く、両者ともこれには閉口したらしい。 詳細はを参照のこと。 その他の逸話 [ ]• 最初の妻・雪子と結婚する際に、に悩まされていることを岳父のに伝えたところ、牧野からすぐにでも治すように言われ、結婚式では吉田本人が出席できず、吉田家伝来のが代わりに新郎の席に飾られていた。 対中国積極外交を主張する奉天総領事時代の吉田は、外務次官のポストを得ようとしたが、首相のにいったん拒絶され、大使に出されることになった。 吉田は首相官邸に乗り込み、田中に向かって長時間にわたり次官の自己推薦のための口舌をぶち、その間、田中はひどくつまらなそうに吉田の話を聞いていた。 吉田は「これで次官は棒に振ってしまったが、せいせいした」とスウェーデンに発つ準備をしていた数日後、田中から電話があり「ところで吉田君、外務次官になってもらうよ、まさか異論はないだろうね」ととぼけた口調でいわれ、吉田は驚きつつも次官就任を快諾した。 以後、吉田は終生、田中のことを尊敬するようになったという。 時代の恩師に海軍の命令で軍事教練担当の教師として派遣されていたがいた。 吉田は鈴木の人柄に強く惹かれ、以後も鈴木と吉田との交友は続き、吉田は総理就任後も鈴木に総理としての心構えを尋ねた。 例えば、「吉田君、俎板の鯉のようにどっしり構えること、つまり負けっぷりをよくすることだよ」などと伝えていたと言われている。 外相の下で次官を務めていた際、省内の文書が次官の吉田の決裁後に大臣である幣原の下に届けられると、能書家として知られていた幣原が文面を全て校正してから決裁をすることを知って、「大臣の所に行った文書は書き直されてしまうのだから、大臣の決裁を貰ってからでないと次官の決裁は出せない」と皮肉を述べたところ、この話が幣原に伝わってしまい、暫くの間二人の仲は険悪になったと言われている。 だが、東久邇宮内閣総辞職後にマッカーサーから後任総理について尋ねられた時、世間から忘れ去られていた幣原をマッカーサーに推挙したのは吉田であったという。 晩年にを授与された後、養父である吉田健三の墓の前で「(養父の)財産は使い果たしてしまったが、その代わり陛下から最高の勲章を戴いたので許して欲しい」と詫びたという。 (昭和22年)、GHQの民主化路線に乗じて勢いを増したがを乱発し、政治闘争を突っ走っていた頃、吉田は「年頭の辞」の中で、「かかる不逞の輩が、わが国民中に多数あるものとは信じませぬ」と言い放った(「不逞の輩」発言:参照 - )。 ノーベル平和賞候補 [ ] に3回推薦されている。 ノルウェー・ノーベル委員会が守秘義務期間を過ぎ開示した選考資料によれば、1965年、1966年、1967年の候補になっていたことが明らかになっている。 特に1965年には当時の首相佐藤栄作や外相、また日本政府の働きかけによって元米国務長官、元西ドイツ首相からの推薦も得て吉田を平和賞候補にする推薦状が作られ、最終審査対象リストにも残っている。 1965年と1966年の推薦状作成の過程については、外交史料館の推薦史料を調査した吉武信彦()の論文に詳しい。 経歴 [ ] 年譜 [ ]• (11年) - に生まれる• (明治14年)8月 - 吉田家と養子縁組。 立太田学校(後の横浜市立太田小学校)卒業• (明治22年)2月 - 寄宿制私立中学入学• (明治27年)4月 - 耕余義塾卒業• 9月 - (後の )入学• (明治28年)9月 - (後の)入学• 11月 - 高等商業学校退校• (明治29年)3月 - 正則尋常中学校(後の)卒業• 9月 - (現)入学• 10月 - 入学• (明治30年)10月 - 入学• (明治34年)8月 - 学習院高等学科卒業• 9月 - 入学• 7月 - 学習院大学科退校(翌年、学習院大学科が閉鎖されるため)• 9月 - 入学• (明治39年)7月 - 政治科卒業• 9月 - 外交官および領事官試験合格、外務省入省• 11月 - 領事官補としてに赴任• (明治40年)2月 - 領事館に赴任• (明治42年)5月9日 - の長女雪子と結婚後に赴任。 12月、駐大使館附三等書記官• (元年)8月 - 安東領事• (大正5年)8月 - 在大使館附二等書記官• (大正6年)7月 - 文書課長心得• (大正7年)2月 - 領事• (大正8年)2月 - 随員• (大正9年)5月 - 在大使館附一等書記官• (大正11年)3月 - 天津総領事• (大正14年)10月 - 奉天総領事• (3年)3月 - 外駐公使。 高等官一等• 7月 - の外務次官• (昭和5年) 12月 - 駐伊大使• (昭和7年) - 待命• (昭和9年)10月 - 外務査察使として欧米をまわる。 娘和子が付き添う。 (昭和10年)秋 - 外務省退官• (昭和11年)6月24日 - 駐英大使• (昭和13年)9月 - 帰朝命令• 10月19日 - 帰朝のため離英• (昭和20年)4月 - 近衛上奏文事件でに• 6月 - 釈放される• - 外務大臣()• - 外務大臣に留任()• - に• (昭和21年)1月 - 外相のまま終戦連絡事務局総裁を兼任。 同次長にを起用• - 内閣総理大臣 兼外務大臣()• 8月 - 総裁• (昭和22年) - に旧高知全県区から出馬して初当選• 5月24日 - 内閣総辞職• (昭和23年)3月 - 総裁• - 内閣総理大臣 兼外務大臣()• (昭和24年) - で2回目の当選• - 内閣総理大臣 兼外務大臣()• (昭和25年)3月 - 総裁• - 内閣総理大臣 兼外務大臣()• (昭和26年) - 内閣総理大臣 兼外務大臣()• - 内閣総理大臣 兼外務大臣()• (昭和27年) - 発足、長官を兼任• - で3回目の当選• - 内閣総理大臣()• (昭和28年) - で4回目の当選• - 内閣総理大臣()• (昭和29年) - 等の影響により内閣総辞職• (昭和30年)2月27日 - で5回目の当選• (昭和33年) 5月22日 - で6回目の当選• (昭和35年)11月20日 - で7回目の当選• (昭和38年)2月 - 池田総理の要請で特使として台湾を訪問し国民政府との親善関係を修復• - 次期総選挙への不出馬を表明• - 衆議院解散にともない政界を引退• (昭和39年)4月 - マッカーサーの国葬に参列• (昭和42年) - の私邸で永眠(89歳)• - 国葬(戦後唯一)。 (明治40年) -• (昭和5年) -• (昭和42年) - 勲章等• (昭和6年)• (昭和39年) -• (昭和42年) - 一族 [ ] 家族・親族 [ ] 、九霞園にて(左)と 生家(竹内家)• 実父:(実業家、政治家)• 実母:瀧子 ただし実母は某とする説がある。 …」という。 『吉田茂とその時代(上)』6頁によると、「…実母の身元はいまでもはっきりしない。 実兄:(実業家、政治家) 養家(吉田家)• 養父:(旧、実業家、・横浜支店長)• 養母:士子 (儒学者・の孫娘、・官吏・佐藤新九郎の娘) 岳家(牧野家)• 岳父:(旧士、政治家、伯爵、の元勲の三男)• 岳母:峰子(旧薩摩藩士子爵の次女) 自家(吉田家)• 妻:雪子(1941年(昭和16年)に死別)• 長男:(英文学者)• 長女:桜子(夫・吉田寛は首相・兄弟の従兄弟、外相の甥にあたる )• 次男: 正男(助教授、教授などを歴任)• 次女: 江子(夭逝)• 三女: (福岡県、実業家・政治家夫人 ) 麻生太賀吉と和子の長男が第92代首相であり、長女はの妃である。 後妻:喜代(元の芸者) 系譜 [ ]• ただし、ジョン・ダワーは「吉田は一八七八(明治一一)年九月二二日に生れたといわれる。 」と著書に記している。 事務方の次官が「事務次官」と称されるのは1949年の改正国家行政組織法施行以降のことで、当時は単に「(外務)次官」と称していた。 ただし、は著書の中で、戦前において対英米関係とアジア進出の両立を唱える外交官をその政策から前者重視を「英米派」、後者重視を「アジア派」と呼んで区別し、前者として幣原喜重郎・重光葵・・芦田均を挙げ、後者として吉田と・を挙げている。 また、奉天総領事・外務次官として東方会議をはじめとする「田中外交」を支えた吉田は、幣原や重光と比較した場合には進出に対してより積極的であったとする見解をとっている。 牧野伸顕の義妹の嫁ぎ先の旧主家の縁で高鍋出身の海軍大将を頼るようアドバイスを受け、そのツテで次長の小沢に「を通して講和を進めるために荷物扱いでもいいからかで自分を運んで欲しい」と懇願したが、小沢は十中八九沈められる旨と憲兵隊に目を付けられている点を指摘し丁重に断った。 憲兵隊に拘束されたのはその翌日だったと、吉田は自著に記している。 吉田の国葬は佐藤栄作総理の強い要望で閣議決定を経て実現したが、1926年に制定された「国葬令」は新憲法の施行によって失効していたため(20条の「国による宗教的行為の禁止」と7条の「天皇の国事行為」に抵触するため)、国葬自体が違憲ということになり、野党や革新系の言論界からこれを批判する声もあった。 しかし戦後の大宰相の記憶は多くの人々にとっては褪せることがなく、世論調査でも大多数がこれを容認するものだった。 特にでは、追悼番組を放送するために、スポットCMを全て削除し、全ての通常番組を変更した。 松平は元でのの六男で、長女のはの妃になっていた。 鳩山はこの「追放が解除されたら……」を含めて4条件であったと主張していた。 これが最後の「組閣の大命」である。 通常洗礼は本人が望まなければできないが、遺書や遺言などで生前明確な意思表示をしていることを司祭が確認できれば、例外的に死後洗礼を行うことができる(東京大司教館)。 翌1968年(昭和43年)9月に吉田邸が盗難に遭った際に失われ、発見されないまま1975年(昭和50年)9月に時効を迎えた。 吉田寛は将来が嘱望された若手外交官だったが、桜子と結婚して数年後に死去してしまう。 その葬儀に来た親戚の佐藤榮作と吉田茂は初めて会うが 、その時の佐藤の風貌が亡き女婿と瓜二つだったので、以後吉田は佐藤を我が子のように可愛がるようになったという。 和子と太賀吉を結びつけたのは側近のであり、ふたりの仲人もつとめている。 出典 [ ]• , p. , p. , p. 73-74. 北岡伸一 2012年9月. 官僚制としての日本陸軍. 筑摩書房• 『日本の外交家 300人の人脈』• , p. 、、2019年2月19日朝刊。 , p. , p. 99-100. , p. 100. 春名幹男「秘密のファイル CIAの対日工作」• , p. 103. 史料にみる日本の近代: 国会図書館• , p. 190. , p. 『別冊歴史読本特別増刊 — ご臨終』(新人物往来社、1996年2月号)• 『産経新聞』2008年10月20日付朝刊、14版、3面• 照沼好文 1984. 神道研究紀要 9. - e-Gov法令検索• - e-Gov法令検索• - e-Gov法令検索• - e-Gov法令検索• - e-Gov法令検索• - e-Gov法令検索• - e-Gov法令検索• - e-Gov法令検索• - e-Gov法令検索• - 衆議院• - e-Gov法令検索• - e-Gov法令検索• - 法庫 houko. com• - e-Gov法令検索• - e-Gov法令検索• - e-Gov法令検索• - e-Gov法令検索• - e-Gov法令検索• - e-Gov法令検索• , p. , p. 133-134. 神奈川県庁ホームページ(2017年6月6日)• 外務省報道発表(2017年10月23日)• 三宅眞 2013年8月23日. 愛妻・納税・墓参り 家族から見た三宅久之回想録. 2020年1月5日閲覧。 2016年4月8日閲覧。 , p. 109. , p. 春名幹男『秘密のファイル CIAの対日工作』• , p. 73-74. 『小説吉田茂』「あとがき」• , p. 140-141. , p. 『評伝吉田茂』• - ノーベル賞公式サイト• 47NEWS. 2014年9月13日. 2014年9月13日閲覧。 2017年8月16日. 2017年8月17日閲覧。 吉武信彦「 」『地域政策研究』第17巻2号、、pp. 1 - 23• 吉武信彦「 」高崎経済大学地域政策学会、2016年• 吉田雪子『ジョージ六世戴冠式と秩父宮』長岡祥三編訳、新人物往来社、1996年 p. 179• 『官報』第7076号「叙任及辞令」1907年2月2日。 『官報』第1212号「叙任及辞令」1931年1月16日。 『官報』第1218号「叙任及辞令」1931年1月23日。 川村皓章『勲章ものがたり 栄典への道』、p. 220• 134-135. 参考文献 [ ] は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2012年9月)• 内閣印刷局『』内閣印刷局、東京、1935年、2頁。 (全4巻、新版全3巻)• 吉田茂 『大磯随想』中公文庫、1991年、改版2001年• 『世界と日本』中公文庫、1992年• 新版『大磯随想・世界と日本』中公文庫、2015年• 『日本を決定した百年』中公文庫、1999年(解説)• 『マッカーサー大戦回顧録』津島一夫訳• 『サンフランシスコ平和条約・日米安保条約』• 『財政均衡、付・占領下三年の思い出』• 『戦後二十年の遍歴』• 『吉田茂』 講談社、1967年 - 以上は でも再刊。 『父のこと』 中公文庫、2017年(オリジナル版)。 第2部は対談「大磯清談」• 『吉田茂-尊皇の政治家-』、2005年。 『父 吉田茂』〈知恵の森文庫〉、2007年。 新潮文庫、2012年• 『麻生太郎の原点 祖父・吉田茂の流儀』、2007年。 『』〈人物文庫全8巻〉学陽書房(新版)• 『吉田茂とその時代 上 』大窪愿二 訳、TBSブリタニカ、1981年。 『吉田茂とその時代 下 』大窪愿二 訳、TBSブリタニカ、1981年。 有岡二郎『100人の20世紀 下 57 吉田茂』〈朝日文庫〉、2001年。 アサヒグラフ 臨時増刊 11月5日号. 1967. 『佐藤寛子の宰相夫人秘録』、1974年。 佐藤寛子『佐藤寛子の宰相夫人秘録』朝日新聞社〈朝日文庫〉、1985年。 鈴木幸夫 『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』 光文社、1965年 54-62頁• 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 角川書店 1983年 200-203頁• 『私物国家 日本の黒幕の系図』 光文社、2000年 75、173、262、263、333頁• 『閨閥 特権階級の盛衰の系譜』 角川文庫 2002年 30-44頁• 『』学研〈歴史群像シリーズ 70号 〉、2003年6月、98-103頁。 関連文献 [ ]• 『吉田茂と昭和史』、2009年6月。 『吉田茂の自問-敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」』、2003年9月。 『吉田茂 ポピュリズムに背を向けて』、2009年4月。 (上下)、2012年• 北康利『吉田茂の見た夢 独立心なくして国家なし』、2010年5月。 北康利『吉田茂 独立心なくして国家なし』、2016年8月。 『赫奕たる反骨 吉田茂』、2010年2月。 『宰相吉田茂』中央公論新社〈〉、2006年11月。 『吉田茂という逆説』中央公論新社、2000年8月。 中公文庫、2003年、• 新版『吉田茂 戦後日本の設計者』、2020年。 編訳『吉田茂=マッカーサー往復書簡集 1945-1951』、2000年。 - 単行版には英語原文を収録。 袖井林二郎 編訳『』、2012年7月。 撮影『吉田茂 写真集』吉田茂国際基金 編、中央公論新社(発売)、2004年7月。 『吉田茂書翰』吉田茂記念事業財団 編、中央公論社、1994年2月。 『吉田茂書翰 追補』・吉田茂国際基金 編、中央公論新社(発売)、2011年3月。 『人間 吉田茂』吉田茂記念事業財団 編、中央公論社、1991年8月。 『歴史としての吉田時代-いま、吉田茂に学ぶもの』吉田茂国際基金 編、中央公論新社(発売)、2009年9月。 演じた人物 [ ]• 『』 1976年、• 『』 、1977年4月 - 1978年2月、• (『』 1983年 、『関西テレビ開局25周年記念 吉田茂』1983年4月9日、)• 『』 1996年、• (『 』 2009年、)• 『』 2009年、• (『』 2012年9月 - 10月、)• (特集ドラマ『どこにもない国』 2018年3月24日・31日、NHK)• (『』 2020年2月24日、) 関連項目 [ ] 本文中・表中にリンクのあるものを除く• (ワンマン道路)• 外部リンク [ ] ウィキクォートに に関する引用句集があります。 ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - 公職 先代: 第45代:1946年 - 1947年 第48・49・50・51代:1948年 - 1954年 次代: 先代: 第5代:1947年(兼任) 次代: 先代: 第2代:1946年(兼任) 次代: へ移行 先代: 第2代:1946年(兼任) 次代: へ移行 先代: 第2代:1946年(兼任) 次代: 先代: 第73・74・75代:1945年 - 1947年 第78・79代:1948年 - 1952年 次代: 先代: 1928年 - 1930年 次代: 党職 先代: 結成 初代:1950年 - 1954年 次代: 先代: 結成 初代:1948年 - 1950年 次代: へ 先代: 第2代:1946年 - 1948年 次代: へ 先代: 第2代:1946年 次代: 学職 先代: 第5代:1963年 - 1967年 次代: 先代: 新設 初代:1962年 - 1967年 次代: 名誉職 先代: 最年長衆議院議員 1955年 - 1963年 次代:• 1905-1906• 1906-1908• 1908-1913• 1913-1916• 1916-1920• 1920-1925• 1925-1929• 1929-1936• 1936-1939• 1939-1941• 大使交換中断• 1952-1955• 1955-1958• 1958-1964• 1964-1968• 1968-1972• 1972-1975• 1977-1979• 1979-1982• 1982-1985• 1985-1988• 1988-1990• 1990-1994• () 1994-1997• 1997-2001• 2001-2004• 2004-2008• 2008-2011• 2011-2016• 2016-2019• 2019-• 1907-1908• 1908-1916• 1916-1919• 1920-1926• 1926-1929• 1931-1932• 1932-1934• 1934-1936• 1936-1937• 1938-1939• 1939-1940• 1940• 1940-1942• 1943-1945• 大使交換中断• () 1952-1955• 1956-1959• 1959-1961• 1961-1963• 1964-1965• 1965-1967• 1967-1969• 1969-1972• 1972-1975• 1975-1979• 1979-1982• 1982-1984• 1984-1987• 1987-1990• 1990-1992• 1992-1993• 1993-1997• 1997-2000• 2000-2002• 2002-2005• 2005-2008• 2008-2011• 2011-2014• 2014-2017• 2017-2019• 2019-• 1903-1906• 1906-1907• 1907-1908• 1908-1912• 1912-1913• 1913-1915• 1915-1919• 1919-1922• 1922-1923• 1923-1924• 1924-1928• 1928-1930• 1930-1932• 1932-1933• 1933-1936• 1936-1938• 1938-1939• 1939-1940• 1940 心得• 1940 心得• 1940-1941• 1941 心得• 1941• 1941-1942• 1942 心得• 1942• 1942-1944• 1944-1945• 1945• 1945• 1945• 1945-1946• 1946-1947• 1947-1948• 1948• 1948• 1948-1949 外務事務次官• 1949-1951• 1951-1952• 1952-1952• 1952-1955• 1955-1957• 1957-1958• 1958-1960• 1960-1963• 1963-1964• 1964-1965• 1965-1967• 1967-1970• 1970-1972• 1972-1974• 1974-1975• 1975-1977• 1977-1979• 1979-1981• 1981-1983• 1983-1985• 1985-1987• 1987-1989• 1989-1991• 1991-1993• 1993-1995• 1995-1997• 1997-1999• 1999-2001• 2001-2002• 2002-2005• 2005-2008• 2008-2010• 2010-2012• 2012-2013• 2013-2016• 2016-2018• 2018-.

次の

土曜ドラマスペシャル「負けて、勝つ ~戦後を創った男・吉田茂~」

ドラマ 吉田 茂

テレビ東京系で今年2月24日に開局55周年特別企画スペシャルドラマとして放送された『アメリカに負けなかった男~バカヤロー総理 吉田茂~』が、今月31日(後7:54~10:18)にアンコール放送されることになった。 コロナ情勢により国内外が混迷の度合いを増している中、今年は戦後75 年という節目の年でもある。 終戦直後、日本はアメリカを中心とした連合国軍に占領された。 そんな混乱を極めた時代に、「日本は絶対立ち直る」と信じ、強力なリーダーシップで日本の独立・復興のために突き進んだのが、このドラマの主人公・吉田茂。 時の総理大臣として、吉田は日本の未来をどう見据え何を想ったのか。 今、吉田の時代を見つめ直すことは、戦後日本を見つめることでもある。 さらに吉田茂の右腕・白洲次郎に生田斗真。 吉田茂を支えたこりんを松嶋菜々子、吉田茂の娘・麻生和子を新木優子、吉田茂を取り巻く5人の男たちを佐々木蔵之介、安田顕、勝地涼、矢本悠馬、前野朋哉が熱演した。 2月の放送後にはネット上で、《鶴瓶師匠の迫力演技凄い!》《スゴク勉強にもなったし、近代日本を作った人たちの熱量を知ることができた》《生田斗真演じる白洲次郎、迫真の演技で痺れる…!》《池田勇人(佐々木蔵之介)と宮沢喜一(勝地涼)青春っぽくていいなぁ!》《前野さんの田中角栄とてもよかった。 ダミ声、声の裏返るとこよく似てました》《新木優子ちゃんのレトロファッションがどれも可愛すぎ》《鶴瓶師匠と松嶋菜々子さんのやり取りが面白く、雰囲気が出て素晴らしかった》などと、多くの反響があった。 コロナ禍で混沌としている今、いかにこの困難を乗り越えていくか。 何かヒントや勇気がもらえるかもしれない。 強い指導力があってこその事だったと思います。 いい意味で熱い時代なのでその熱さを感じてお楽しみください。 ドラマ吉田茂がアンコール放送します。 見逃してしまった皆様も一度ご覧になられた皆様も、他国からの支配に敢然と戦った男達の物語を堪能してください。 吉田茂さんはじめ、白州次郎さんやたくさんの方々の血の滲むような努力があったからこそ、今我々が存在するのだと思わせてもらえます。 是非ご覧になってください。

次の