斎藤道三 明智光秀 関係。 明智光秀

明智光秀の重臣斎藤利三!斎藤道三や春日局との関係性とは?

斎藤道三 明智光秀 関係

この巻の主な内容• 明智家は本当は道三と義龍のどちらに味方したのか?!• 幼少期から光秀に一目置いていた斎藤道三• 斎藤義龍の父親は斎藤道三と土岐頼芸のどっちだったのか?!• 道三は小見の方を娶った後に明智城を攻めたのか!?• 明智城を守る明智光安の苦悩 斎藤道三と斎藤義龍父子の仲は、最終的には長良川で戦火を交えるほど険悪なものへとなっていく。 この以降、明智家は斎藤道三に味方していたものと思われている。 だが反対に、明智家が土岐家を追放に追いやった道三に味方するはずはない、という見方をしている史家もいる。 だが正確な資料が残されていない上では、明智家が実際にはどちらの味方をしたのかを断言することはできない。 明智家は本当は道三と義龍のどちらに味方したのか?! 『明智軍記』を参考にするならば、どうやら明智光安(光秀の叔父)が城主を務める明智城は道三側に付いていたようだ。 ただし『明智軍記』はから100年以上経ったのちに書かれたものであるため、情報が正確ではない記述も多々ある。 そのためこれを信頼し得る情報だとは言い切れないわけだが、しかし今回は『明智軍記』の記述も参考にしていきたい。 ここで明智家が斎藤道三に味方するはずがないという論理も合わせて見ておくと、斎藤道三は光秀が再興を夢見たを美濃から追いやった人物だった。 その人物に味方するなど考えられない、という論理であるわけだが、筆者は個人的にはそうは思わない。 戦国時代は力を持つ者こそが正義だった。 つまり力がなければ、力を持つものに従うしかない。 さらに言えば斎藤道三の正室である小見の方は、光秀の叔母だったとされている。 となれば、血縁者の側に味方するのは自然であったとも言える。 光秀は家を何よりも大切に考えていた人物だ。 それならば明智家の血縁者である小見の方を正室に迎えている道三に味方する方が自然に見え、『明智軍記』に書かれていることにも違和感を覚えることはない。 幼少期から光秀に一目置いていた斎藤道三 長良川の戦いが起こったこの頃、明智光秀はまだまだ土岐家の再興を現実的に考えられるような状況ではなかった。 明智家は武家とは言え最下層とも言える家柄で、武家というよりは土豪に近い水準にまで成り下がっていた。 このような状況では土岐家のことまで心配することなどとてもできなかったはずだ。 そもそも斎藤道三は明智光秀には幼少の頃から一目置いており、彦太郎(光秀の幼名)に対し「万人の将となる人相がある」と言ったとも記録されている。 このような関係性があったことからも、道三と義龍が戦った際、明智家が道三に味方したと考えることに不自然さはないようにも思える。 斎藤義龍の父親は斎藤道三と土岐頼芸のどっちだったのか?! 斎藤義龍は長良川で父道三を討った後に明智城を攻め落とした。 この戦いで明智光安が討ち死にし、光秀ら明智一族は越前へと亡命するしかなくなってしまった。 ではなぜその亡命先が越前だったのか?明智光秀の父明智玄播頭(げんばのかみ)こと明智光隆の妻は、若狭の武田義統の妹だった。 そしてこの武田家は越前朝倉家に従属していた。 恐らくはこの武田家を通じ、当時は非常に裕福だった越前に仕官を求めたのではないだろうか。 ちなみに斎藤義龍には土岐頼芸の子であったという説もあるが、斎藤道三の子であったことが記された書状なども残されており、その信憑性は低いようだ。 仮に義龍が本当に頼芸の子だったならば、光秀が義龍に味方することが自然にも思えるが、しかしそうしなかったということは、やはり義龍は道三の子だったのではないだろうか。 義龍は父道三を討った後、中国で同じようにやむなく父親を殺害した人物から名を取り范可(はんか)と名乗るようになった。 また、父親殺しの汚名を避けるためか道三を討つ際は一色を名乗っていたようだ。 これらのことを踏まえるならば、もし義龍が本当に頼芸の子で、道三の子ではないのだとすれば、范可という名も一色という名も名乗る必要はなかったはずだ。 道三は小見の方を娶った後に明智城を攻めたのか!? このように総合的に考えていくと、斎藤義龍の父親はやはり斎藤道三で、義龍は弟たちに寵愛を示していた道三によって廃嫡される可能性があったために、土岐氏を美濃から追放した極悪人を討伐するという名目によって長良川の戦いへと発展していったと考えられる。 そしてかつての主君に忠誠を誓っていた安藤守就、稲葉一鉄、氏家卜全の美濃三人衆は道三に対し良い印象を持ってはおらず、長良川ではこの美濃最大の有力者たち3人が義龍側に付くことにより、道三はあっけない最期を迎えることになってしまう。 そして光秀の叔母である小見の方が道三の正室だった明智家としては、その小見の方を見捨てることなどできず、感情はどうあれ道三に味方するしかなかったのではないだろうか。 ちなみに小見の方は天文元年(1532年)に道三(当時の名は長井規秀)に嫁いでいる。 だが『細川家記』によれば、光秀の父である玄播頭は土岐家が道三に敗れた戦で道三に明智城を攻められ討ち死にしているらしいのだが、信憑性に関しては確かとは言えないらしい。 確かに明智家から小見の方を娶り、その後で明智城を攻め、なお小見の方を正室にし続けたとなると、やや辻褄が合わなくなる。 となると光秀の父はもしかしたら、土岐家と斎藤道三による抗争とは無関係の戦で戦死したのではないだろうか。 だとすれば辻褄も合う。 明智城を守る明智光安の苦悩 こうして考えていくと、やはり小見の方が道三に輿入れした天文元年以降、明智家は道三側とは一貫して良好な関係を維持していたのではないだろうか。 そう考えなければ、圧倒的な兵力差がある中で明智家が義龍側ではなく、あえて道三側に味方した理由も、義龍が明智家を明智城から追いやった理由も説明がつかなくなる。 確かに斎藤道三はかつての主君である土岐家を美濃から追放した人物だ。 しかし世は戦乱だったとしても、明智城を守る光秀の叔父光安としては、妹である小見の方を見捨てることなどできなかったのだろう。 そう考えるともしかしたら長良川の戦い以降、明智家は明らかに道三に味方したわけではなく、立場を鮮明にせず自らに味方しなかったために業を煮やした義龍によって明智城を攻められたのかもしれない。 だが今となってはその真実を知るすべはない。

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明智光秀の重臣斎藤利三!斎藤道三や春日局との関係性とは?

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光秀と信長の出会いとは 日本歴史上でも濃密な関係といえる光秀と信長、その関係の始まりはどのようなものだったのでしょうか。 二人の出会いについてみていきましょう。 信長に仕える前の光秀 光秀が最初に仕えていたとされる斎藤道三です。 光秀は最初から信長に仕えていたわけではなく、もとは美濃国の 斎藤道三に仕えていました。 道三とその息子である斎藤義龍(よしたつ)が争った「長良川の戦い」で、道山は義龍に敗北。 道山側についていた明智家は義龍勢に明智城を攻められ一族離散の憂き目にあいます。 その後光秀は、 朝倉義景を頼って越前国に逃げ、この地で家臣として10年過ごしました。 朝倉家には、「永禄の変」で兄・足利義輝を殺害された室町幕府の将軍である 足利義昭も援護を求めて訪れており、光秀と義昭はここで知り合ったといいます。 しかし、これらは江戸時代中期に編纂された軍記物語『明智軍記』などにもとづいたものであり、光秀の前半生については現在でも謎に包まれています。 信長と義昭の仲介役となる 越前国の朝倉家に身を寄せた義昭ですが、朝倉氏は義昭を救援する気がありませんでした。 そのことを知った義昭は他の支援先を探すことになります。 数ある戦国大名の中でも飛ぶ鳥を落とす勢いであったことから、光秀は信長を頼るよう義昭に助言します。 こうして光秀は信長の元を訪れ、信長との交渉を担うようになりました。 光秀はそこで信長にその能力を見込まれ、信長に仕えるようになったのです。 信長に仕えた光秀の働き 戦国を代表する猛将の柴田勝家や、後に天下統一を果たした羽柴秀吉ら信長傘下には有力な家臣が多くいました。 そんな多くの有力家臣がいる中にあっても、光秀は信長の信頼を勝ち取っていきます。 織田家に仕官したあとの光秀の功績について見ていきましょう。 将軍と信長のパイプ役だった 信長の力を借りることで足利義昭は将軍として上洛することに成功します。 信長の家臣となった光秀でしたが、その後も義昭と信長をつなぐ重要な役割を果たします。 将軍でありながら政権を担当する実力のない義昭と、天下を統一する大義名分が必要な信長を結びつけた光秀は、両者の利害調整のために奔走しました。 その結果、信長の上洛と義昭の将軍としての京都帰還が達成されたのでした。 光秀のこの働きにより、戦国時代は統一に向け大きく動き出します。 数々の戦いで指揮をした 光秀はただの将軍とのパイプ役だけではなく、軍事家としても優れた能力を発揮します。 「金ヶ崎の戦い」で浅井長政が裏切り信長軍が窮地に陥ると、秀吉らと共に部隊の最後尾を務め、信長をピンチから救います。 また、佐久間信盛らとともに、信長を苦しめた石山本願寺や雑賀衆との戦いに参加したり、軍団長として丹波などの地方征伐を行ったりと、勝家や滝川一益、丹羽長秀ら人材豊かな信長家臣の中でも目覚ましい活躍を遂げました。 近江国・丹波国を治めた 加えて、光秀は緻密な頭脳を持っており、政治家としても活躍。 自ら攻め取った丹波国や拠点である近江国の統治を信長から任せられたほどです。 近江は信長の拠点である岐阜・尾張と京を結ぶ最重要地点であり、丹波国は京都から近い国の一つであることから、光秀がいかに信長から実力を買われていたかが分かりますよね。 光秀と信長の仲はどうだったのか? 本徳寺に所蔵されている、明智光秀の肖像画です。 光秀は本能寺にて信長を葬ったわけですが、二人の中はそれほどまでに険悪だったのでしょうか。 二人の関係についてはさまざまな説が飛び交っています。 光秀と信長の関係性について見ていきましょう。 光秀は信長に恩義を感じていた 光秀は斎藤道三や朝倉氏などに仕えていましたが、その実力を大いに認め、存分に能力を発揮させてくれた主君は信長だけでした。 また、前述の主君たちに比べて信長は数ある戦国大名の中でも仕えるに足る有能な君主であったことも、光秀の充足感に影響したと考えられます。 さらに光秀が石山本願寺との戦いで窮地に陥ったときに、信長が自ら命がけで救援に赴き、光秀の命を救ったという出来事もありました。 これらのことから、光秀は信長に恩義を感じており、忠義を尽くしていたと考えられています。 信長は光秀を信頼していた 一方、信長も光秀を信頼し、重要なポストを次々と与えていました。 最初に京都へ軍勢を連れて入ったときも実質の京都奉行に光秀を任命し、拠点間を結ぶ重要な地である近江国の統治を任せるなど、その実力を十分に買っていたことがわかります。 多彩な家臣団の中でも軍事、政治、調整業務の全てにおいて、光秀ほどの高いレベルでこなせる家臣はまれでした。 光秀は信長を裏切ったのか? こうした二人の関係も天正10年(1582)の「本能寺の変」で終焉を迎えます。 本能寺の変は実は謎だらけの事件で、川角太閤記などたくさんの史料を歴史家が研究していますが、野望説や怨恨説、天下をとった豊臣秀吉の黒幕説など、意見が分かれています。 光秀がなぜ本能寺の変を起こしたのかは、諸説あり、その真相は闇の中です。 しかし、ここまで見てきた通り、光秀と信長の関係性は良好だったように思えます。 果たしてその真相は……、謎は深まるばかりです。 <関連記事>.

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斎藤利三ってどんな武将?明智光秀や長宗我部元親との関係は?

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光秀は斎藤道三の家臣だったのか? 斎藤道三の室「小見の方」は東美濃の明智氏の女性で、道三と小見の方との間に生まれ、のちに織田信長に嫁いだ娘の名は「帰蝶」、帰蝶と光秀は従兄妹である、という説が一般に流布している。 この説の出どころは『美濃国諸旧記』だ。 道三の娘が織田信長に嫁いだことは史実としていいが、娘の名前は不詳。 『美濃国諸旧記』の史料としての価値は低い。 どちらかと言えば、歴史物語として読むべき書物だ。 そう読めば、作者のセンスが光る女性名ではある。 光秀が道三の家臣であったかどうかも、これまた不詳と言うしかない。 そもそも道三の支配が、東美濃にまで及んでいたのかどうか……。 道三が美濃のどれだけの範囲を支配下に置いていたかさえ、まだはっきりとはしていない。 その点、道三は東美濃に勢力を拡大すべく明智氏の娘を娶った、とする『美濃国諸旧記』の筋書きは、それなりに的を射ているのかもしれない。 道三時代の美濃一国の勢力分布について研究が進展すれば、明智氏についても、何らかのヒントが得られるのではないかと期待している。 なぜ美濃を離れて越前へ? 弘治2年(1556)の斎藤道三・義龍父子の長良川合戦で、立場に窮した明智一族は明智城に立て籠ったが、義龍の勝利後、義龍の軍勢に攻撃されて落城した。 落城直前に光秀と幾人かの一族が城を脱出し、美濃郡上郡を経て越前へ逃れたという。 この俗説の基本的部分は『明智軍記』の設定によっている。 『遊行三十一祖京畿御修行記』には、「(光秀は)濃州土岐一家牢人たりしが、越前朝倉義景を頼り申され、長崎称念寺門前に十ヶ年居住」とある。 光秀が足利義昭上洛の年、永禄11年(1568)に越前を離れたとすれば、その10年前は永禄元年(1558)ということになり、弘治2年とは2年の開きがある。 「十ヶ年」というのが正確な年数なのか概算なのかがわからないので、何とも言えないが、越前へ行ったのが長良川合戦が原因だとすれば納得できなくもない。 『明智軍記』の作者もそう考えたのだろう。 作者の作った筋書きであって根拠はないものと思う。 だからと言って、その筋書きを否定する根拠もないのが現状だ。 10年間かどうかはともかく、光秀が一時期、越前にいただろうことは、朝倉氏滅亡直後に光秀が朝倉氏の旧臣服部七兵衛尉に宛てた書状からもうかがえる。 この書状で光秀は、服部が「竹」という者の面倒を見てくれたことに感謝し、服部に百石を与えるとしている。 竹は光秀が越前在住中に所縁のあった人物で、光秀が越前を離れたのちも越前にとどまっていたものと考えられている。 美濃の土岐・斎藤(道三以前)両氏と越前朝倉氏とは、古くから政治的・軍事的に緊密な交流があったから、美濃に変事があった際、美濃守護土岐・守護代斎藤両氏の関係者が越前へ逃亡することは、不自然ではない。 俗説では朝倉氏を頼って越前へ行き同氏に仕えたとされているが、朝倉氏を頼ることはあり得ることとしても、朝倉氏の家臣になっていたかどうかは確認できていない。

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